2011年11月29日火曜日

12/11新潟脱原発アクション

みなさま 重複ご容赦 ! 情報拡散歓迎。

「12.11 脱原発デモ行進 &「TVに映らない福島のいま」講演会」のお知らせ

3月11日の原発震災から9ヶ月になる12月11日(日)、以下のように、新潟市で 「脱原発デモ行進」と郡山から被災された方々をお呼びして原発震災の真実の声をうかがいます。また、郡山の子どもたちの高線量被曝の危険から差止め請求裁判を展開している原告団長からその経過と現状についてお話いただきます。

ご参加ください。


12月11日(日) 福島原発震災から9ヶ月になる日、以下のような行動をよびかけます。ご賛同いただける形でご参加下さい。

13時に、石宮公園(新潟駅万代口 新潟ステーションホテル向い) に集合しましょう。

◎石宮公園から 礎町 木揚場教会までの「脱原発デモ行進」

14時(デモ終了後)から、

◎(郡山) 黒田節子さん&柳原敏夫郡山集団疎開裁判弁護士講演を聞きましょう。

テーマ 「TVに映らない福島のいま」
– お日さまと遊ぶ子どもたち、放射能と暮らす子どもたち 

会場 新潟市中央区礎町通上一ノ町 本願寺木揚場教会 
tel 025-229-1870

いずれも、参加費無料です。
(但し、木揚場教会は駐車場がありません。)

主催「12.11脱原発100万人アクションin新潟実行委員会」
連絡先  小池  090-9586-2346   ikeike0904@live.jp
http://611niigata.wordpress.com/ twitter   @611niigata

2011年11月17日木曜日

10月27日~29日「原発いらない福島の女たち~100人の座り込み」アクション参加報告

私も呼びかけに賛同し、28日ほんの一日でしたが、霞が関の経産省前座り込みに行ってまいりました。
原発反対を意味する黄色い服装か、何か黄色のものを身につけて参加してとのことだったので、「そう
だ、沖縄県知事選に参加した際に着た黄色のTシャツがあった!」と早速着込んで7:01新潟駅発の新幹
線に乗り込みました。
105
分前に現場へ到着したときは、もう沢山の参加者でテント周辺は一杯。マイクを握った社民党々
首の福島みずほさんが「原発再稼動は絶対反対・・・」と言っている声と姿が目に飛び込んできました。
傍には、子ども福島ネットワークの椎名千恵子さんが和服姿でいらっしゃるのを見つけ、ご挨拶。
すると、直ぐ近くに、十日町の三羽のトキの衣装のお一人を発見。「私も新潟から来ました」とご挨拶。
その近くには、ハイロアクションの三春町から武藤類子さん、野田首相の訪米日程に合わせてニューヨ
ークの国連本部前で眼前に現れた首相に「野田首相、福島の子どもたちを守れないで、原発の安全を世
界中に言うなんて卑怯だ」と叫び、「事故ですべてが変わった。安全な原発などあり得ない」と述べ、
世界の人たちが一体となって原発を無くすべきだと訴えた川俣町でやまなみ農場をやっている佐藤幸子
さん、そして、「福島原発全機即時廃炉に」を訴えた福島県議選出馬の佐々木慶子さんと錚々たるメン
バーの姿があり、折を見計らって彼女たちもそれぞれの訴えをリレートークなさいました。
私も急遽参加者名簿に登録し、陽だまりのある場所で座り込みに参加。
「原発はいらない、福島の子どもたちを安全な場所に避難させてほしい、原発輸出や原発再稼働に反対
」と訴えました。
 
1030分からプレス向けに今回のアクションの意図の説明がなされ、質疑応答もあり、主に佐々木慶子
さんが対応して、「私たちのアクションを広めて欲しい」とアピールしました。多数の報道陣がカメラ
と録音機を携えてスピーカーを取り囲み取材していたので、新聞に大きく報道されるとの期待が木っ端
微塵に裏切られるとは予想しませんでした。原発推進派の国と電力会社は膨大なお金を使ってマスコミ
を黙らせていることは聞いて知っていますが、どの新聞社もそこまでプライドも使命感も無くしている
現実に、改めて愕然となりました。
それでも、一社のみですが、夕刊に座り込みを報道した東京新聞がたのがせめてもの救いと言えます

テントの周辺には日毎の座り込み参加人数や日程表、スローガン、等々が、所狭しと張り出されていまし
た。参加者たちがそれぞれの想いを表現したプラカードやバナーなど、可愛いものからかなり芸術的な作
品になっているものまで、いろいろ沢山ありました。
経産省を包囲するための指編みのチェーンを作っている女性たちが真ん中に毛糸を置いて、輪になってお
しゃべりしながらせっせと編んでいました。

前日の2711時には「福島の女たち」からの、4つの要望を書いた書面が経産省に届けられました。
それら4つの要望は、内閣府総理大臣 野田佳彦様、経済産業大臣 枝野幸男様、原発担当大臣 細野豪
志様、資源エネルギー庁長官 高橋一郎様、原子力安全・保安院長寺坂信昭様に宛てた「原発即時廃
止・子どもたちの疎開に関する要請書」で、
(前略)福島第一原発事故は、人類と核は共存できないことを明らかにしました。人間の健康を破
壊するエネルギーは不要です。私たちは、人間の「いのち」と共存できる新たなエネルギーを基本
とした社会への転換を強く求める立場から、以下の通り要請します。 貴職におかれましては、当要
請書に対する文書での真摯な回答を20111111日までに要求します。
【要請内容】
1.すべての原子力発電所を直ちに停止させ、廃炉とすること。
2.定期点検・トラブル等により停止中の原子力発電所の再稼働を行わないこと。
3.子どもたちを直ちに、国の責任において避難・疎開させること。また、すでに避難し、または
これから避難する住民に完全な補償を行うこと。
4.原発立地自治体を補助金漬けにし、自立を妨げる原因となっている電源三法(電源開発促進税
法、 電源開発促進対策特別会計法、発電用施設周辺地域整備法)を廃止すること。
(以上)
と言うものです。
だが、担当者は「原発への依存度を、中長期的に可能な限り引き下げていくというのが政府見解。
放射線量の高い場所では除染に努めたい」と繰り返すだけ。福島市の元養護教諭、佐藤早苗さんが
「除染している時は周囲の放射線量が高くなるので、先に妊婦や子どもたちを避難させてから作業
をしてほしい」と訴えたが、回答は・ネかったとのことです。
「国は除染、除染というけれど……」。懸命に除染をしても、大雨で山から土砂が流れ出ると線量が元に戻
ってしまう。まずは「子どもたちを疎開させてほしい」というのが参加者の総意だ。交渉の末、28日、官邸
に場所を移し首相補佐官に要請書を手渡したと報告がありました。
テント前では原発輸出反対署名もありました。

私は座り込みの間にも、時々席を立って新潟から知っている人は参加していないか探してみましたが・・・
暫くすると、「あら、お馴染みになった姿が。石山さ~ん、ここで~す。」脱原発をめざす新潟市民フォー
ラムの石山謙一郎さんでした。午後12:30から参議院会館で開かれる福島市渡利地区住民政府交渉の傍聴にい
らして、こちらの座り込みへも脚を運んでくださったのでした。高橋和彦さんと華枝さんご夫妻も午後から
参加と伺っていましたが、残念ながら、すれ違いになってしまいました。

お昼時は、たくさんの経産省で働く人たちが経産省分館建物から出てきます。
お昼はそちらでアピールしようとの誘導で本館付近から移動。
分館玄関前の道路の両側に並び、建物からぞろぞろ出てくる人たちに向かって、「原発いらない、子どもを
守れ、故郷を返せ」と声を挙げました。経産省の女性の多くは下を向き、男性たちは私たちと目を合わせな
いように、そっぽを向いて足早に通り過ぎようとしました。たんぽぽ舎の柳田真さんも、「原発の再稼動を
止めよう。原発はいらない」と演説。
その他、福島市から福津市へ避難している宇野朗子さんは「世界が原発や核と決別するよう、祈る気持ちだ」
と話しました。数人の若いお母さんたちも歌を歌ったり、それぞれの言葉でアピールを。
通り過ぎていくサラリーマンや通行人の殆ども本当に無関心そう。まるで、自分の問題ではないと思ってい
るようでした。
お昼休みの最後に建物の中にいる経産省の窓へ向かって、「原発いらない、子どもを守れ、原発廃炉」と、
う一度シュプレヒコールを挙げました。

その後は、渡利地区住民の政府交渉の傍聴へ行く人もあり、座り込みに残る人もありでした。私は、場所を
本館正面前に変えて座り込みを続けることに。
座っている間に、近所に座った人たちと情報交換したり、写真を撮ったり。
私が話し掛けた参加者の多くは、都内や千葉県、神奈川県、茨城県など近隣に住んでいる福島県出身者や福
島県に親戚があると言う方たちでした。異口同音に不安や親或いは子どもや孫たちへの心配の声、不誠実な
政府関係者や東電への怒りの声を聞かせてくださいました。
分館前アピール後には、都内から参加している人たちのグループがおにぎりやおやつの差し入れをしてくだ
さり、お弁当を持って行かなかった私は唯々感謝。

2時過ぎ頃、急に辺りが騒々しくなりました。経産省と道路を挟んで向かい側にある外務省の前を日本国旗を
付け、団体名と「領土奪還」などとスローガンをデカデカ書いた極右翼の黒塗りの街宣車が6台連なってゆっ
くり走りながら、「尖閣諸島は日本の領土だ、外務省は何をしている、腰抜けめ!」等とがなり立てていま
す。最初は、外務省への抗議だったのが、私たちの座り込みを見つけ、「うさぎがおいしいとか言ってんじゃ
ねえよー。」「脱原発とか言うのも勝手だが、公共の場にテントなんか張ってってやがよ~、違法占拠だー!
警察は極左翼を取り締まれ!」とスピーカーで怒鳴り散し、遂に、車外へ降ろされて警官と一悶着、という
場面に遭遇したりも。

次は、この座り込みを企画した「福島の女たち」からネット上に出された座り込みの報告の引用です。

座り込みの参加者数は、
27:県内70/県外735 + 28:県内65/県外608 + 29:県内75/県外818
= 合計:2371
この数字は受付で参加者名簿に、名前を書いた人数で、この他に受付を通らずに並んだ方や、デモに
加わってくださった方もいたと思います。

子どもたちにどんな未来を手渡すか。その視点で国民的議論にしたいです。
 
「原発いらない福島の女たち」は、3日間で延べ2371人が経産省前で座り込みました。おしゃべりをし
て、編み物をして、福島の現状をお伝えして、すばらしい時間を過ごしました。
最終日には、1000人が銀座の町をデモ行進したと報道されました。
日比谷公園「かもめ広場」のフィナーレでは、みんなが泣いて、笑って、歌って、叫んで、一つになっ
て、これからも、つながりあって活動していくことを誓いました。
わたしたちの切なる願いは、子どもたちを安全な場所に逃がすことであり、
二度とこのような恐ろしい事故が起きぬよう、すべての原発を廃炉に向かわせることです。
ところが、わたしたちが受けている辛苦を無視して、信じられないニュースが駆け回っています。
玄海原発の再稼働、ベトナムへの原発輸出

わたしたちは今、静かに怒りを燃やす東北の鬼です。
これは類子さんの919スピーチのワンフレーズです。
東北の鬼となって、原発利権構造維持派のみなさんに、「原発はもういらないんだ」と伝えに行きましょう。
今も、わたしたちの座り込みを引き継いで、「全国の女たち」が115日まで1週間の座り込みに入りま
した。現地は、「福島の声を聞きたい!」という人たちであふれていました。
どうしても「原発利権構造」を守りたい一部の人たちが、世界中の大多数の人たちの犠牲もかえりみず、
子どもたちへの影響の大きさも歯牙にかけず、原発稼働を推し進めようとしています。
諦めず、へこたれず、原発阻止の声をあげていきましょう!

最後に私の感想です。
20111105日になって、毎日新聞の夕刊に、女たちの座り込みの記事が大きく載ったとのことをネットで知りま
した。 社会で起こっている大問題を報道せず、あたかも無かったかのような振りをする報道関係者の良心は問わ
れて然るべきです。それでも、極端に少数ではあっても、良心の呵責に耐えられず、責任を持って職務を果たす新
聞社があるということは、社会が未だ辛うじて雀の涙くらいの健全性を残していると思っていいのでしょうか。

福島第一原発事故から7ヶ月余り。未だに収束の見通しが立たず、多くのいのちが脅かされている現状を憂い、一刻
も早く国と東電に国策の誤りを認めさせ、被災し犠牲となっている人たちへの謝罪と償いに当らせ、即時脱原発を宣
言させることで、誰もが少しでも安全に、安心して生活できる希望ある未来を見い出せるようにするため、今こそ、
私たちのひとりひとりが立ち上がることがとても大切だと思っています。

一人でも多くの人に訴え、女たちだけではなく、男たちも、老若男女誰もが参加できる運動を企画し、実行した「福島
の女たち」は強く、見事でした。子どもを生み、守り、育てる女たちだからこそ、心底その子どもらの命への危険を危
惧し、目に見えない、臭わない放射能汚染を引き起こした国と東電の責任と補償の義務を追及せずにはいられない切実
な思いが結集した必然的行動だったとも思います。
そして、彼女たちはひとりひとりが実にはつらつとして威厳に満ちていました。
明るく、非暴力で、訴えを貫いていく彼女たちの姿勢に、同じ願いを持つ私たちは、出会い、寄り添い、つながって、
希望ある未来を実現できる大きな力となっていけるよう、今後も自分にできる精一杯を尽くしたいと思います。

写真を添付して、拙い報告と致します。※写真は後日
小林邦子

2011年10月30日日曜日

東京での「3・11 メルトダウン」写真展と トーク

写真展とトーク            

高橋和彦 

10月27日、東京で行われた「3・11 メルトダウン」写真展とトークに行ってきました。
トークの1人、豊田直巳は映像ジャーナリストで、イラクでの劣化ウラン弾、アチェなどビデオやスチール写真で取材。展示写真は彼ほか数名の作品でした。
彼らは福島に地震発生直後から入り、持参した測定器で現地のとんでもない有様を取材、いまも現地に入っています。6月、テレ朝の報道ステーションで酪農家の自殺が報じられましたが、この取材と映像は彼によるものでした。(トークの中でも流され胸を打つものでした。)
写真展はそれほど点数が多いわけではないのですが、息をしているのが苦しくなるような映像でした。会場のアンケートに私は書きました。
「映画『渚にて』、あるいはチェルノブイリのドキュメント映像、写真などを想起します。
それともデジャブーでしょうか。」
誰もいない町に、「原子力明るい未来のエネルギー」のアーチの下で、取り残された犬たちがうろつく、そんな写真に何年?か後の新潟駅前の光景を見ていました。
ほか、何頭もの乳牛が息も絶え絶え、または餓死している光景、逃げ出してそこらじゅうの作物や家の中にまで入り込んで荒らす豚たち、降り注ぐ放射能の下暮らす人々、それでも明るく振舞う子どもたち、測定器を体に当てられる子どもたち、高濃度汚染地域でがれきの中に放置されたままの遺体、等々、トークの中でも映像は流され、この肌に福島の状況が浸み込んで行くようでした。
トークは、豊田直巳氏、やはり映像ジャーナリストの野田雅也氏とピースボートの人でした。
豊田、野田両名は取材の様子やいま福島の人々、特に子どもたちが置かれている尋常で無い状況
などをチェルノブイリとも重ね合わせながら、ピースボートの人は福島の子どもたちが数週間船ですごした様子や現地でのボランティア活動、来年1月に横浜で開催される『脱原発世界会議』のことなどを話しました。
展示写真は岩波ブックレット『福島原発震災のまち』と、凱風社『3・11 メルトダウン』に載っています。
もし入手困難でしたら2冊とも手元にありますのでお貸しします。ご連絡ください。
トークの最後、ある歌手の歌を背景に福島の自然と子どもたちや農家の美しくも酷い映像がスライ
ドショーで映し出されました。
ウクライナ出身、日本在住のナターシャ・グジー、youtubeで検索すると、2008年NHKで放映された映像が出て来ます。ぜひ彼女の歌とメッセージを聞いてください。

2011年10月22日土曜日

10/15郡山デモ

10月15日の「子どもたちを避難させて!郡山DEMO」 に、参加してきました。
途中、バスのなかで放射能を測定、途中0.8~9μSV(出発時の黒埼では0.05μSVだから16倍)
の値が表示され、びっくり。バスの中でも変わらないことを実感。
郡山駅前は、福島県外へ避難されている方々を含め、200名程度の集会を開催していました。
「子ども福島」の中手代表が自ら住む渡利地区の放射能汚染のひどさを訴え、俳優山本太郎さんは、「郡山疎開裁判を勝利させて、子どもをすぐ疎開させるべき」と発言しました。
この駅前での線量は、0.6μSV前後。終了後、2.5kmの郡山市役所へ向けデモ行進。
一本道の緩やかな坂道がまっすぐ続くルートでした。ソプラノサクソホンと太鼓の軽妙な心地よいシンプルな音楽にノって行進、商店の人々は、笑顔と拍手で送ってくれる人々が多く見受けられます。途中行進に加わる人も結構います。
参加人数は、集会よりもずっと多いように思えます。山本太郎さんのリズミカルな、変化に富んだシュプレヒコール、字余りな文句も人が続いていくから不思議です。若い彼は、1時間余りの行進最後まで叫んでいたことが印象に残りました。市役所は、ちょうど坂道をのぼった頂上、「開成山公園」の向いでした。
市役所で「郡山市への申し入れ書」を読み上げ、終了となりました。
シンプルな行進でしたが、参加者たちの真剣さが印象深いものでした。
行進途上の空間線量率は、0.6~0.7μSV。郡山は、新潟の現在の平均空間線量率0.05μの14倍。年間で換算すれば、上限1mSVの5~6倍、子どもにはとても高いものです。子どもたちの疎開とその後の真剣な除染は早急に対処すべきであり、郡山疎開裁判の勝利を強く望むものです。

10/12  石山

2011年10月11日火曜日

新潟における「福島震災避難生活の課題」について考える

下記のような勉強会を催しますので、関心ある方、どうぞご参加下さい。

みなさま 

福島原発震災による新潟での避難生活に関して、震災前とできるだけ同じように生活していただくために、新潟市での生活情報の不足はないか、平等な待遇が図られているか、などの課題について新潟市民として考える場を以下のように設定してみました。

関心ある方、ご参集下さい。

<日時・場所>       10月20日(木) 午前10時から 新潟市役所第二分館にて

「 福島震災避難生活の課題について考える - 新潟市(危機管理防災課)に聞く」

なお、 災害対策で活動している市議会議員や避難者(東電原発被害者の会代表)にも来ていただくようお願いしています。

ご参加希望のかたは、午前9:50頃、新潟市役所本館1Fロピー にお集まり願います。       

10/10  脱原発をめざす新潟市民フォーラム   石山謙一郎
連絡先 090-8841-9463

2011年10月8日土曜日

中手聖一「子ども福島」代表との対談 ( 要旨 )

子どもたちの集団疎開をめぐる福島の経過と現状

福島原発震災直後、子どもたちの疎開について、当初、一校まるごと引き受けますとの声が広島
県の3校からあがった。しかし、残念ながら福島から手が挙がらなかった。また、福島県も福島県外へ出す必要ない、との立場だった。つまり、出す気がないということだ。
3月15日ころの35mSvなどというひどい放射能がばらまかれた頃、どんなものかわかっている人々は自主避難を行った。一方、山下俊一などの勢力はご存知のように「100msvでも大丈夫」などとキャンペーンを張った。そして、一般市民は、「それを信じたい」という気持ちでここを動かなかった。私が山下講演会へ参加して100mSvの問題を発言しても「話すな、話すな」と言う声が上がり、ついには、「帰れ、帰れ」との声が会場からあがるほどだった。しかし、5月以降、山下俊一のボロは明
らかになっていき、市民の不信・不安は高まっていった。そして、山下自身も100mSVから20mSVへ「大丈夫」という基準を下げざるを得ない状況にもなった。しかし、この7月、選挙があったが、候補者の中に除染や脱原発を言う候補はいたが、避難については誰も言わない状況であった。議員も経営者も、住民流出の目先の問題しか考えていない。避難については誰一人としてとりあげなかった。

チェルノブイリで学んだこと– 5年間放置したソ連の過ちを繰り返すな !

ソ連は、チェルノブイリ事故で5mSV以上を強制移住、2mSV以上を任意(選択的)移住とした。日本には、強制移住のみで選択的移住権はない。しかも20mSV以上からだ。だからソ連を評価する人もいる。しかし、残念ながら、ソ連のこの避難政策は5年経ってからだ。それまでは、5年間放置したままだった。
事故が2年たった頃、誰にもわかる異常が出始めた。当時グリーンピースのウクライナの責任者で現在イギリスの研究所長と話したが、子どもたちは風邪を引いたらなおりにくく、重篤になりやすく、また、肺炎になりやすいという症状になり、大騒ぎになったそうだ。ベラルーシの団体から聞いた話だが、150km〜300km離れた地でも子どもたちに異常が出始め、役人が来て「ここも汚染地区」、別の地域でも「ここも汚染地区」と測っていった。そして3年後になってやっと汚染マップができた。結局、子どもをガイガーカウンター代わりにしたということだ。
そして、健康な人は5人に1人位になってしまった。
5人で10個の病気をもつようになったともいわれた。
そして、5年たって漸くこの避難政策をとった。
チェルノブイリ事故では、私たちは、5年放置したということがこの事態となった最大の要因だという
ことを学び、このチェルノブイリ事故の過ちを福島で繰り返さないでほしいと言われた。

移住と疎開 – 「サテライト疎開」の決断を !

いまのところ、移住について、市民からも了解は得られていない。しかし、数年先にいやがおうでも必ず、避難の声があがる。ソ連の子どもより日本の子どもが放射能に強いわけではない。
目先のことしか見えない日本政府、自治体の長や議員さんや市民も含めて、一日も早く決断できるように今から準備をしなければならない。ソ連は、あの広大な土地の真ん中で事故が起き、移住地も新しい土地が用意された。しかし、日本では汚染された土地でも捨てるわけにはいかない。大規模な除染をして1m2でも住める土地を広げていくことが必要だ。そして除染された土地に戻るという避難政策が必要だと考える。いま、賛同(市民グループは別にして)は得られないけれど、こういう避難政策が必要な時が来ると将来を見すえて提唱している。移住でなく、いずれは戻ることを前提にした疎開が必要だ。

私は、選択的避難地区を設定して、
1,自己選択–情報開示 
2,同程度生活の保障–平等待遇 
3,アイデンティティの保護 –避難者コミュニティ
を3原則としており、これを「サテライト疎開」と言っている。

広島では、被曝者を中心として「サテライト疎開を実現する会」が結成された。そして、新潟には、唯
一の集団疎開といっていい「朝鮮学校」の例がある。いろいろ問題あっても福島県人としてアイデン
ティティをもった集団疎開はできるし、力あわせれば可能だと言えるのでないか。
(2011.9.2 福島市「子ども福島」情報センターにて)

2011年10月5日水曜日

9・19 明治公園 さようなら原発1000万人アクション新潟県から参加レポート

高橋 和彦

新潟駅で顔見知り数人に会う。皆明治公園へ。最寄の地下鉄の駅に開始30分前くらいに到着、札口付近にはそれらしい人たちが壁の周辺地図を見たりきょろきょろしたり、そのうちなんとなく人の流れができて、私らはその後を付いて行った。階段を上がったところはもう辺り一面人の波。会場に行く途中にはそこら中幟旗やらミニ集会やっているのやら座り込んでいるのやら叫んでいるのやら唄っているのやらもう何がなにやら分からない状態。
見渡す限りの歩道は人で埋まり、次々と人波が流れ込む会場に入るともうびっしり人と幟旗でわあーっという感じ。
ステージめがけてひたすらかき分けかき分け、途中で新潟平和運動センターの幟の下、見覚えある顔に手を振って挨拶。ようやくステージから5,6メートルくらいのところに空きを見つけ、座り込む。隣
は福島の人たちだった。焼けたアスファルトが尻をジリジリ。
参加者は公園の外まで溢れたのはもちろん、集会が終わりかけてもまだ各駅から会場に向かう人で歩道は埋まり動けない状態だったそう。(主催者発表6万人! 警察発表2万7千人! 各マスコミはどう表現したか!)

集会が始まる。ライブ。「♪まえをむういてあーるこおおう…なみだがこぼれたっていいじゃな
いか…」で盛り上がり。
発言は8人、皆短くても中身の濃いものばかり。福島からのアピールのときはステージ下の「福島隊」が幟とともに皆立ち上がる。「…日々否応なく決断に迫られている。子どもにマスクをさせるかどうか、食べるかどうか、逃げるかどうか…」「私たちは捨てられた」「誰かが決めたことに従うのではなく、一人一人が考えて…」「原発をなお進めようとする力が垂直にそびえる壁ならば、横に限りなくつながろう…世界へと…」 
山本太郎は原発反対の最も単純で最も本質的な部分をストレートに-「俺は生き延びたいから、他の人にも生き延びてほしいから…」。「主義、思想、政治にまみれ」(姜信子)、埋没しかねない反原発を、その手で掬い取って見せた。    
デモは3コースに分かれて都内へ。私たちは「個人グループ」のAコース。青山通ってNHK脇ま
で。会場から外に出るのが押し合いへし合いで大変。ようやく外に出て適当なところにいると、ここ
からがまた大変で動かない。警察が勝手に200人くらいで切っていって、しかも前のかたまりがはる
か向こうに行っているのになかなかこちらを進めさせない。警察の策略だという話。後半はすいすい
だったけれど。途中では両側の歩道を後ろからじゃんじゃんデモの人たちが幟旗、プラカードに掛け声で車道上で動かない私たちを追い抜いていく。あれって法令違反じゃないか、なんて関係ない。こちらもいらいら限界でついに「早く行かせろ」コール。先導の警官顔青ざめ。後で聞いたのでは会場から出るだけで2時間待った人もいるとか。
若い男性、着物の着流しにつばつき帽子、手には巾着で下駄履き。すっとデモに入ってきて30、40?分くらい一緒に歩いて、またすっと歩道へ出て行った。
ゴール地点近くで路上に止まった車の中から大江健三郎が「ごくろうさま…」と声を掛けていた。
皆駆け寄り握手。温かく柔らかい手だった。『あなたのコトバでここに来ました。いつも勇気をありが
とうございます』、伝えられなかったコトバを心の中でつぶやいた。
近くのカフェで飲み物を買い、路上で一服する間も、次々とデモの列がやってくる。本当に色々なグループがいるもんだと感心。それによくこれだけ集まった。だいぶ暗くなったころ、威勢のいい掛け声でひときわ元気な一団が来た。先頭はマイクを持った山本太郎。さすが上手だね。
忌野清志郎、斎藤和義の歌が鳴り響く。会場脇の出発したところでは女性が自作らしいナントカ音頭を歌っていたし、形(ナリ)もさまざま、10のグループがあれば10のやり方があるという感じ

2011年9月20日火曜日

講演会『チェルノブィリからみた福島第一原発震災』のお知らせ

放射能汚染の大地・空・海を見すえて、これからどういきるべきか、
汚染現場の調査、被災者の救援、医療・物資支援に取り組んできた専門家の一つの視点をお伝えします。

『チェルノブィリからみた福島第一原発震災』
~土壌浄化・エネルギー自給の可能策を探る~

講師 河田_冒東(かわた  まさはる)さん (「チェルノブイリ救援・中部」理事)
遺伝子組み換え研究の専門家、1990年からウクライナで被災者救援活動を展開。また、2006年からは医療・物資支援に加え、土壌から放射能を吸収、農業復興による地域再生をめざす「菜の花プロジェクト」を開始しています。

日時  10月16日(日) 13;00~16:30 、受付開始_12:30
プログラム 1部 「福島原発震災とチェルノブイリ」 13:00~14:30
2部 「放射能汚染下でどう生きるか」  15:00~16:30

会場  新潟東映ホテル 中央区弁天2-1-6 tel025-244-7101
定員  200名 、申込連絡先 tel・fax_025-269-5833(大野)
参加費 500円

主催  にいがた有機農業推進ネットワーク

希望の方は、9月30日までに(1次)、下記メール石山宛てへもお申し込みいただけます。
定員になり次第締め切ることになりますので、その際はご容赦下さい。

9/20  脱原発をめざす新潟市民フォーラム 石山謙一郎
  申込先アドレス ed7j@ce.wakwak.com 

2011年9月15日木曜日

「子ども福島」訪問報告

「子ども福島」訪問の報告会を下記のように開催します。
あわせて、"新潟の支援のこれから"をご一緒に考えたいと思います。ご参加下さい。

■日時  9月22日(木) 午後6時
半から8時半
■場所  新潟市中央区礎町通り3の町2086 クロスパル新潟 401号室 tel 025-224-2088
■参加費無料 

9/14 脱原発をめざす新潟市民フォーラム 石山謙一郎

2011年8月22日月曜日

ブログ開設にあたって


脱原発をめざす新潟市民フォーラムは、1996年に巻原発住民投票における原発反対の勝利のために、新潟市民として(当時巻町は新潟市ではなかった)外野からの応援にすぎないとしても声をあげようということで発足した「巻原発を考える新潟市民フォーラム」が前身です。
ご存知のとおりこの住民投票は長年にわたる巻町での原発反対運動の成果を示すものとなりました。
私たちとしても当初の目標はこれで達したのですが、なお、柏崎・刈羽原発がある限り新潟市民が原発の危険から逃れられません。
そこで名前を変えて、柏崎・刈羽での原発反対運動さらには全国の反原発運動と結びつきながら脱原発を目指す運動を続けることにしました。
3・11の福島原発事故以降は、振津かつみさんによる低線量被曝に関する講演会(5月)、渡辺満久さんによる地震・地盤に関する講演会(6月)をとおして原発事故の背景と問題点を学習してきました。
現在は、福島の子供たちの健康を護る運動にどのように参加できるかを模索しているところです。
私たちの会は老若男女さまざまからなり、出入り自由で会費もなく支援して下さる方々のカンパだけで活動しています。
このブログに関心を持って下さる方たちの参加をお
待ちしています。

2011.08.19

脱原発をめざす新潟市民フォーラム代表・中村哲也